高齢化社会に伴う認知症や記憶障害の予防において、「しっかり噛んで食べること」が脳機能の維持に直結するメカニズムが、近年の神経科学および脳画像解析によって実証されています。動物実験およびヒトの臨床研究を統合した総説論文において、咀嚼による末梢からの感覚入力が三叉神経を介して記憶を司る「海馬(Hippocampus)」へ到達し、空間記憶能力の維持やストレスによるニューロン減少の阻止に決定的な役割を果たしていることが示されています。
本内容は、以下のPMC(PubMed Central)に収録された研究論文にて詳細が確認できます。
Chewing Maintains Hippocampus-Dependent Cognitive Function | PMC https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4466515/
咀嚼器官と海馬を結ぶ「2つの神経入力経路」
加齢に伴う認知機能低下の要因として、口腔内の健康状態、とりわけ「残存する歯の数」と「咀嚼機能」の低下が強い因果関係を持つことが数多くの研究で示唆されています。生理学的な観点において、口腔内での咀嚼運動が引き起こす感覚情報は、主に並行する2つの神経回路を通じて海馬へダイレクトに伝達されるとのことです。
- 大脳皮質を経由する経路: 咀嚼による機械的な圧力は三叉神経感覚核で受信され、視床(後外側腹側核)を経由して大脳皮質体性感覚野および連合野を通ります。その後、嗅内皮質から海馬の入り口にあたる歯状回(DG)へと投射されます。
- 視床下部を直接経由する経路: 脳幹網様体を経て視床下部へと伝達され、そこからオピオイド作動性およびヒスタミン作動性繊維として海馬へ直接信号を送るルートが存在します。
動物を対象とした実験データにおいて、臼歯の抜去や継続的な軟食(柔らかいエサ)の給餌、あるいは咬合不全によって咀嚼の機会を人為的に剥奪すると、海馬におけるニューロン数の減少や樹状突起スパインの退縮といった形態的な障害が確認されました。また、これらの個体では海馬に依存する「空間記憶能力」に重篤な欠損が生じる(例:成体動物において臼歯抜去後数ヶ月で学習能力が顕著に低下する)ことが明確に報告されています。
「噛む」行動が慢性ストレスによる神経毒性をブロックする
海馬は、脳内で例外的に生涯を通じて新たな神経細胞が生み出される「神経新生(Adult Neurogenesis)」が行われる領域です。しかし、慢性的な身体的・心理的ストレスを受けると、視床下部-下垂体-副腎(HPA)軸が過剰に活性化し、高濃度のグルココルチコイド(コルチゾール等のストレスホルモン)が分泌されます。過剰なグルココルチコイドは海馬の神経細胞に対して強い毒性を持ち、神経新生を著しく抑制するため、認知機能の低下やうつ症状などの引き金となります。
同論文の重要な知見として、ストレス条件下にある個体に「物を噛む(チューイングラットなどの咀嚼行動)」という物理的タスクを与えると、抑制されていた海馬の神経細胞増殖が速やかに回復することが実証されています。
同時に、HPA軸の過剰反応自体も低下しており、咀嚼行為そのものが中枢神経における「ストレスバッファー(緩衝材)」として機能することが指摘されています。つまり、リズミカルな咀嚼運動が、神経毒性を持つストレスホルモンの暴走を内分泌的に抑制し、海馬を物理的かつ化学的に保護している状態であることが明らかになっています。
日常生活における咀嚼回数と認知機能の相関性
これら一連のエビデンスは、現代の高度に加工された柔らかい食品(軟食)を中心とした食生活が、進化的プロセスで獲得された「脳への定期的な感覚入力システム」をバイパスしてしまっている危険性を警告しています。
日々の食事における咀嚼回数の減少は、局所的な消化器官への負担増大にとどまらず、長期的には海馬への神経刺激の枯渇を招き、将来的な認知症発症リスクの潜在的な蓄積要因となり得ると報告されています。一方で、毎回の食事で意識的に噛む回数を増やす、あるいはガムなどの手段を活用して咀嚼筋に適度な負荷をかけ続けることは、薬物療法に依存せずに脳の構造的な健康状態を維持する極めて有効かつ安全な介入手段であると結論づけられています。
この記事の科学的根拠(参考文献)
Chewing Maintains Hippocampus-Dependent Cognitive Function
Kin-ya Kubo, Huayue Chen (2015)
Published in: International Journal of Medical Sciences
咀嚼感覚が海馬へと伝達される神経回路と、咀嚼機能の低下による認知機能障害、そして咀嚼(ガムなどを噛むこと)がストレスによる記憶障害や海馬神経細胞への毒性をいかに防ぐかについて包括的にまとめたレビュー論文。