糖尿病治療薬やダイエット外来でも注目を集める消化管ホルモンの一種「GLP-1(インクレチン)」の自己分泌量が、食事中の「咀嚼(噛む行動)の有無」によって有意に変動することが、マウスを用いた生理学的実験によって実証されています。液体化された食事を単に嚥下するのではなく、固形食を意図的に咀嚼した場合においてのみ、迷走神経を通じた腸からのホルモン放出が劇的に促され、食後の血糖値安定に直結することが示されています。
本内容は、北海道医療大学における基礎研究を通じて詳細なデータとともに報告されています。
マウスにおける咀嚼動態および咀嚼習慣の相違が GLP-1 分泌に与える影響 | 北海道医療大学学術リポジトリ (※学術機関リポジトリ収録論文に基づく知見)
液体食と固形食における「GLP-1分泌量」の決定的差異
グルカゴン様ペプチド-1(GLP-1)は、小腸下部から大腸に存在する「L細胞」から分泌されるホルモンです。GLP-1は血中に乗って膵臓のβ細胞へ到達し、血糖値に依存してインスリン分泌を促進するほか、胃の排泄(内容物を腸へ送るスピード)を遅らせ、脳の中枢神経に働きかけて食欲を強く抑制するなど、全身のエネルギー代謝において極めて重要な役割を担っています。
健常なマウスを用いた実験において、摂取するカロリーと栄養素が全く同一になるように調整された「固形飼料(咀嚼を強制される条件)」と「液体飼料(咀嚼を回避できる条件)」の比較評価が実施されました。その結果、以下の決定的な差異が観察されています。
- 活性型GLP-1の分泌量増大: 固形飼料を咀嚼しながら摂取した群は、液体飼料を飲み込んだ群と比較して、食後の血中活性型GLP-1レベルが有意に高く推移しました。
- インスリン初期分泌(第一相分泌)の促進: 咀嚼を通じたGLP-1の増大により、膵臓からの素早いインスリン放出(初期分泌)が遅滞なく誘導され、結果として食後高血糖(血糖スパイク)が抑えられました。
これらの結果は、食べ物が物理的に胃や腸に到達してその栄養成分が検知される「以前」の段階で、すでに口腔内での運動(咀嚼)がGLP-1の放出を引き起こしていることを意味しています。
迷走神経の遠心性活動による「脳・腸」間ダイレクト通信
食物が消化管に至る前に腸内の細胞(L細胞)が作動する背景には、「脳腸相関(Gut-Brain Axis)」と呼ばれる複雑な神経コマンドシステムの存在があります。
咀嚼行動が行われると、口内の機械的刺激および味覚入力が三叉神経などを通じて脳幹へと即座に伝達されます。すると副交感神経の主幹である「迷走神経(Vagus nerve)」の遠心性活動が亢進し、下部消化管に至るまで電気信号が走ります。この神経刺激が、まだ未消化の食物が到達すらしていないL細胞を外側からダイレクトに活性化(事前スタンバイ状態に構築)し、GLP-1の早期放出をトリガーしている一連のループが示唆されています。
つまり、よく噛むことは、単純な「食物の物理的粉砕」ではなく、体内の代謝工場全体のスイッチを食事の第一段階で「オン」にするための、極めて高度な神経入力インターフェースとして機能していると言えます。
咀嚼習慣による「膵β細胞の保護・増殖」効果の可能性
同研究におけるもう一つの重要な示唆として、「普段から固形食を咀嚼している習慣」を持つ群において、長期的な内分泌系の器質的な保護と機能強化がもたらされる事実が挙げられます。
長期の飼育実験データを組織学的に評価したところ、日常的に固形食を咀嚼していた群では、空腹時における活性型GLP-1のベースラインそのものが底上げされているだけでなく、インスリンを分泌する膵β細胞の「分化・増殖」が促され、β細胞面積の有意な拡大(物理的機能増強)が確認されたとのことです。
これは「毎回の食事でしっかり噛んで食べる」という行動が、単なる一過性の血糖値コントロールにとどまらず、時間をかけて内分泌臓器(膵臓)への負荷を軽減し、耐糖能異常や2型糖尿病の根源的な進展を防ぐ安全なアプローチであることを示しています。日々の咀嚼は、薬物投与に頼らずにGLP-1の自然な血中濃度を高めるための、根本的かつ非侵襲的な自己介入プログラムとして機能していくと考えられます。
この記事の科学的根拠(参考文献)
マウスにおける咀嚼動態および咀嚼習慣の相違が GLP-1 分泌に与える影響
北海道医療大学学術リポジトリ (2020)
Published in: Hokkaido Sciences University Repository
固形食飼育(咀嚼あり)と液体食飼育(咀嚼なし)のマウスを比較し、咀嚼活動がL細胞からのGLP-1分泌と膵β細胞からのインスリン初期分泌をダイレクトに促進する機序を実証した基礎研究。